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古墳と生活

古墳時代は今から1700年から1300年も前のことです。
古墳時代の前の弥生時代は、日本に米づくりが入り、大きなムラが多くでき、争いがはじまりました。
そして、ムラをまとめるようなクニができ、女王卑弥のいるような邪馬台国が栄えました。
その少しあとの古墳時代は西日本を中心として、大きなまとまりができる時代です。
それは、鉄をたくさん手に入れ、武器やよろいをつくって武力で人々を支配しました。
また、鉄は田畑を切り広げたり、水路をつくったりする道具にも多く使われ、米などもたくさんつくれるようになりました。
古墳に葬られた人は、古墳時代の指導者の人たちと、その一族の人たちです。
仁徳天皇の墓として宮内庁が管理している日本一大きな大仙古墳は、前方後円墳という形の山のような墳丘です。
中には石室があり、墳丘の上には埴輪が立っています。
弥生時代という時代から墓がどんどん大きくなっていきました。
当時の人は大きな墓にはいるのが自慢でした。
古墳時代になって墓はいっそう大きくなりました。
それが一番大きくなったものが大仙墳です。
濠や堤をつけて人を入れなくして、できるだけ大きく見せようとしました。

古墳と権力

古墳時代にどんどん大きくなった墓は、指導者はその大きな墓をみんなに見せて、その人の権力があることをしめして、人々を治めようとしました。
でも、中国大陸や朝鮮半島の人から人々を治める方法を学び、それを使うようになりました。
そのため、大きい古墳をつくれる権力をしめすことはあんまり必要ではなくなりました。
このことは聖徳太子の冠位十二階や十七条憲法のような、政治のしくみを法律できちんと決めようとしたことによくあらわれています。
こうしたしくみが整うと、無理に大きな墓をつくるようなことはしなくなりました。
また、大きな古墳をつくる土地もしだいに少なくなってきていました。
でも、聖徳太子も、まだ古墳が多くつくられていた時代の最後の方の人で、古墳に葬られました。
日本で最も大きい古墳は大阪府堺市にある大仙古墳です。
この古墳に入った人は実はだれなのかはわかりません。
日本の古い歴史書れの日本書紀に伝えられる話などをもとに仁徳天皇の墓ではないかとされています。
また、中国の歴史書の宋書には、ちょうど大仙古墳がつくられたころに讃や珍という日本の王が中国に使いを送ったことが記録されています。

天皇と古墳

天皇という呼びかたは、1200年ほど前の飛鳥時代の終わりごろから後に使われたものです。
その前は、中国の歴史書の宋書や1500年ほど前の鉄剣や鉄刀、銅鏡には王という文字があります。
王と呼ばれた人がいたことは確かです。
でも、この文字はおうとは読まずにきみと呼んでいたことの方が多そうです。
キトラ古墳は、奈良県明日香村大字阿部山にある直径約14メートルの古墳で、7世 紀末から8世紀初め頃に作られたと推測されています。
墳丘は、阿部山と呼ばれる小 さな山の南斜面にあります。
1983年、テレビカメラによる石室内の調査が行なわれ、玄武の壁画が発見され注目をあびました。
さらに1998年の調査では、新たに白虎像、青龍像、天文図が発見され ました。
2001年3月には、デジタルカメラによる内部撮影が行なわれ、新たに朱雀像が発見されたほか、玄武や天文図はこれまで以上に鮮明な画像が得られています。
さらに、 2001年12月の内部調査では、人物像らしき像が描かれていることも確認され、ますま す注目度があがっています。
古墳の被葬者は不明ですが、石室内に壁画が描かれていることから、王族クラスの人物であることは確実とのことです。
ちなみにキトラという名称の由来は不明ですが、付近の地名であった北浦から来ているのではないかとも言われています。
現在では、国の特別史跡にも指定されており、文化庁が古墳の保存を検討していま す。
保存ためのカメラによる石室内撮影等の予備調査も行なわれています。

古墳時代

今から約1600年前より300年間続いた時代を古墳時代といいます。
古墳はこの時代にたくさん作られたお墓のことを言います。
古墳は自然の地形を利用したり、土盛をしたりして作られました。
形は円形や方形をもとにして、いろんなものがありました。
墳丘の上や内部には、たて穴式石室や横穴式石室が作られたり、木棺や石棺を直接埋めて死体を埋葬しました。
また、 埴輪を立てたり周囲に堀をめぐらしたものもありました。
実楽古墳は、6世紀の古墳群で第1号墳が、中国自動車道の建設に伴って調査され、多数の土器や刀、勾玉が出土しました。
また第2号墳は、吉川町の代表的な例として、横穴式石室をもった古墳で現在の田んぼの中にその姿をとどめいています。
周辺には弥生時代の遺跡もあり、ほ場整備工事に伴って、竪穴式住居のあとや多数の弥生式土器が出土しました古墳は、その地方を支配していた豪族の墓です。
3世紀の終わりごろから8世紀のはじめにかけてつくられました。
5世紀には畿内を中心に、大きな古墳がつくられましたした。
6世紀ごろには、日本の各地でたくさんの古墳がつくられました。

八千代市の古墳

八千代市の古墳の多くも、6世紀の終わりから7世紀ごろのものだと思われます。
八千代市内の古墳は、市のまん中を流れる新川の両岸に集中しています。
今までに、約50基が確認されていますが、残っている古墳は10基ほどです。
一番大きな古墳は、村上にある根上神社古墳です。
前方後円墳で、全長40メートルほどあります。
古墳は、土の盛り方によって、円墳、方墳前方後円墳などの形があります。
八千代市に多いのは、円墳で、七百餘所神社には直径15メートル、高さ3メートルの円墳があります。
古墳の中には、石室をつくり棺をおさめたり、棺だけを埋めたりして、死んだ人を安置します。
そのとき一緒におさめる品物があります。
古墳がつくられたはじめのころは、鏡や石でつくった飾りなどが多く埋められましたが、後半になると馬具や土器などの普段の生活に使う品物が多くなります。
また、家や動物・人物の形をした埴輪や円筒埴輪で、古墳の周りを飾ることもありました。
大化2年(646)に、身分によってお墓の大きさが決められました、大化の薄葬令というのがあります。
勝手に大きなお墓を作ることができなくなったのです。
また、仏教が広まり、お寺をつくることが広まったことなどから、古墳はしだいにつくられなくなりました。

九州の古墳

古墳時代の社会は、それに先立つ弥生時代・縄文時代のような地域ごとの文化の違いは大してありません。
しかし、九州は朝鮮半島・中国大陸文化の窓口であり、他の地域には見られない独特な文化が花開きました。
その代表が石人石馬とともに、北・中部九州に展開する装飾古墳です。
装飾古墳とは、古墳の埋葬施設の石壁に、壁画や線刻、彫刻などの装飾を持つ遺跡で、墳丘を持つ古墳の他に墳丘を持たない横穴も含めます。
ただし、墳丘に立てる埴輪も一種の古墳の装飾ですが、装飾古墳には含めません。
また、飛鳥美人や四神像の出現で話題となった奈良県の高松塚古墳・キトラ古墳も壁画古墳と呼んで装飾古墳とは区別しています。
装飾古墳は800基余りが知られ、九州には約500基が築かれています。
北・中部九州以外では、鳥取県・香川県・神奈川県などにも見られ、関東北部・東北南部の太平洋側(茨城県・福島県)にも集中します。
しかし、古墳時代の中心であった近畿地方には少数しか見られません。
時期は4世紀から7世紀にかけて築かれていますが、5世紀中頃~7世紀前半に属するものが大半です。

身近だった古墳

わらび取りやきのこ狩りをのぞけば、私たちが山野を訪れる機会はそれほど多くないが、燃料を山林にもとめていた昭和三十年代以前、山は今よりもずっと身近な場所であり、それぞれの山には天神山・城山など、地形の特徴や伝承などにもとづいた名前が付けられています。
そうした名称の一つに茶臼山、車山があります。
茶臼山は茶臼の形、つまり円形の石臼に長方形の取っ手がついた平面形をとらえたもの、車山は水車の形、丸い丘の横に低い張り出しがついた形をとらえた名称とみられ、昔の人々が実に詳細に地形を観察していたことに驚かされます。
円に方形が接続した形で、茶臼山や車山と名付けられた山、実はその多くが前方後円墳である。
岡山市東部、吉井川と砂川の間の丘陵に築かれた浦間茶臼山古墳である。
墳丘全長138mの大形前方後円墳で、前期古墳のなかで最大の規模をもつ奈良県箸墓古墳と同じ設計で、二分の一の大きさに築かれたとみられる。
古墳時代前期初めに築かれた吉備の古墳のなかで最も大きいだけでなく、その時期の古墳としては全国第四位、大和・山城以外では最大の古墳である。

浦間茶臼山古墳

大和と吉備の首長が同盟し前方後円墳成立の際の中核勢力となったと考えられているが、浦間茶臼山古墳の墳丘の形状や規模はそれを具体的に示す資料であり、吉備勢力の大きさを物語るものである。
岡山市街地の東、操山の西端に所在する網浜茶臼山古墳である。
古くから墓地となっているため墳丘がかなり削られてはいるが、大形古墳の威容をとどめている。
全長92mを測り、箸墓古墳の三分の一規模で築造されたと考えられる。
また、この古墳で注目されるのは立地であり、岡山市街地からも仰ぎ見ることもできるが、むしろ南側の瀬戸内海に視界が開けており、内海航路からの遠望を意識して築かれた古墳とみられる。
最後の中山茶臼山古墳は、吉備津神社の後ろ側、吉備中山の山頂に築かれた全長120mの前方後円墳である。
現在、陵墓参考地として宮内庁の管理下にあり立ち入ることはできないが、測量図から尾根を大きく切断して築造されていることや、墳頂部が広いことを知ることができるこの古墳は前方部がやや短くて箸墓古墳と同じ設計とは考えにくく、浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳とは別系統の設計図で築造されたと考えられる。
特殊器台形埴輪の文様も異なっており備中の独自性を示すようである。