浦間茶臼山古墳
大和と吉備の首長が同盟し前方後円墳成立の際の中核勢力となったと考えられているが、浦間茶臼山古墳の墳丘の形状や規模はそれを具体的に示す資料であり、吉備勢力の大きさを物語るものである。
岡山市街地の東、操山の西端に所在する網浜茶臼山古墳である。
古くから墓地となっているため墳丘がかなり削られてはいるが、大形古墳の威容をとどめている。
全長92mを測り、箸墓古墳の三分の一規模で築造されたと考えられる。
また、この古墳で注目されるのは立地であり、岡山市街地からも仰ぎ見ることもできるが、むしろ南側の瀬戸内海に視界が開けており、内海航路からの遠望を意識して築かれた古墳とみられる。
最後の中山茶臼山古墳は、吉備津神社の後ろ側、吉備中山の山頂に築かれた全長120mの前方後円墳である。
現在、陵墓参考地として宮内庁の管理下にあり立ち入ることはできないが、測量図から尾根を大きく切断して築造されていることや、墳頂部が広いことを知ることができるこの古墳は前方部がやや短くて箸墓古墳と同じ設計とは考えにくく、浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳とは別系統の設計図で築造されたと考えられる。
特殊器台形埴輪の文様も異なっており備中の独自性を示すようである。