八千代市の古墳
八千代市の古墳の多くも、6世紀の終わりから7世紀ごろのものだと思われます。
八千代市内の古墳は、市のまん中を流れる新川の両岸に集中しています。
今までに、約50基が確認されていますが、残っている古墳は10基ほどです。
一番大きな古墳は、村上にある根上神社古墳です。
前方後円墳で、全長40メートルほどあります。
古墳は、土の盛り方によって、円墳、方墳前方後円墳などの形があります。
八千代市に多いのは、円墳で、七百餘所神社には直径15メートル、高さ3メートルの円墳があります。
古墳の中には、石室をつくり棺をおさめたり、棺だけを埋めたりして、死んだ人を安置します。
そのとき一緒におさめる品物があります。
古墳がつくられたはじめのころは、鏡や石でつくった飾りなどが多く埋められましたが、後半になると馬具や土器などの普段の生活に使う品物が多くなります。
また、家や動物・人物の形をした埴輪や円筒埴輪で、古墳の周りを飾ることもありました。
大化2年(646)に、身分によってお墓の大きさが決められました、大化の薄葬令というのがあります。
勝手に大きなお墓を作ることができなくなったのです。
また、仏教が広まり、お寺をつくることが広まったことなどから、古墳はしだいにつくられなくなりました。
九州の古墳
古墳時代の社会は、それに先立つ弥生時代・縄文時代のような地域ごとの文化の違いは大してありません。
しかし、九州は朝鮮半島・中国大陸文化の窓口であり、他の地域には見られない独特な文化が花開きました。
その代表が石人石馬とともに、北・中部九州に展開する装飾古墳です。
装飾古墳とは、古墳の埋葬施設の石壁に、壁画や線刻、彫刻などの装飾を持つ遺跡で、墳丘を持つ古墳の他に墳丘を持たない横穴も含めます。
ただし、墳丘に立てる埴輪も一種の古墳の装飾ですが、装飾古墳には含めません。
また、飛鳥美人や四神像の出現で話題となった奈良県の高松塚古墳・キトラ古墳も壁画古墳と呼んで装飾古墳とは区別しています。
装飾古墳は800基余りが知られ、九州には約500基が築かれています。
北・中部九州以外では、鳥取県・香川県・神奈川県などにも見られ、関東北部・東北南部の太平洋側(茨城県・福島県)にも集中します。
しかし、古墳時代の中心であった近畿地方には少数しか見られません。
時期は4世紀から7世紀にかけて築かれていますが、5世紀中頃~7世紀前半に属するものが大半です。
身近だった古墳
わらび取りやきのこ狩りをのぞけば、私たちが山野を訪れる機会はそれほど多くないが、燃料を山林にもとめていた昭和三十年代以前、山は今よりもずっと身近な場所であり、それぞれの山には天神山・城山など、地形の特徴や伝承などにもとづいた名前が付けられています。
そうした名称の一つに茶臼山、車山があります。
茶臼山は茶臼の形、つまり円形の石臼に長方形の取っ手がついた平面形をとらえたもの、車山は水車の形、丸い丘の横に低い張り出しがついた形をとらえた名称とみられ、昔の人々が実に詳細に地形を観察していたことに驚かされます。
円に方形が接続した形で、茶臼山や車山と名付けられた山、実はその多くが前方後円墳である。
岡山市東部、吉井川と砂川の間の丘陵に築かれた浦間茶臼山古墳である。
墳丘全長138mの大形前方後円墳で、前期古墳のなかで最大の規模をもつ奈良県箸墓古墳と同じ設計で、二分の一の大きさに築かれたとみられる。
古墳時代前期初めに築かれた吉備の古墳のなかで最も大きいだけでなく、その時期の古墳としては全国第四位、大和・山城以外では最大の古墳である。
浦間茶臼山古墳
大和と吉備の首長が同盟し前方後円墳成立の際の中核勢力となったと考えられているが、浦間茶臼山古墳の墳丘の形状や規模はそれを具体的に示す資料であり、吉備勢力の大きさを物語るものである。
岡山市街地の東、操山の西端に所在する網浜茶臼山古墳である。
古くから墓地となっているため墳丘がかなり削られてはいるが、大形古墳の威容をとどめている。
全長92mを測り、箸墓古墳の三分の一規模で築造されたと考えられる。
また、この古墳で注目されるのは立地であり、岡山市街地からも仰ぎ見ることもできるが、むしろ南側の瀬戸内海に視界が開けており、内海航路からの遠望を意識して築かれた古墳とみられる。
最後の中山茶臼山古墳は、吉備津神社の後ろ側、吉備中山の山頂に築かれた全長120mの前方後円墳である。
現在、陵墓参考地として宮内庁の管理下にあり立ち入ることはできないが、測量図から尾根を大きく切断して築造されていることや、墳頂部が広いことを知ることができるこの古墳は前方部がやや短くて箸墓古墳と同じ設計とは考えにくく、浦間茶臼山古墳や網浜茶臼山古墳とは別系統の設計図で築造されたと考えられる。
特殊器台形埴輪の文様も異なっており備中の独自性を示すようである。